
2011年8月 4日 17:15
2011年7月15日 17:23
松下政経塾 研修塾 塾頭 古山和宏(執筆)
松下政経塾の研修は、今年度から基礎課程2年、実践課程2年の計4年間となりました。創立時の研修期間は5年間。18期から31期までは3年間でした。研修期間も試行錯誤の中、5年→3年→4年と変わって今に至っています。
私は塾生時代(3期生)に5年制、塾頭として3年制を経験しており、その経験から、できれば研修期間は長くとり、じっくり研修する時間を確保できればという思いが常にありました。創立当初、入塾してくる塾生のほとんどは新卒でしたが、最近は社会人として実務を経験してから入塾してくる塾生が大半を占めるようになりました。それも研修期間を5年から3年に変えた理由の一つでした。
松下幸之助塾主は「三年もたてば、一応の仕上げはできるでしょう。そうすれば、あとの二年間は街頭に出て辻説法をするとか、いろいろ社会の中で将来の準備をしていく。そして、五年間ですべての点にわたって見識を養っていくわけです。例えば、かりに卒塾してすぐに文部大臣なら文部大臣をやれと言われても、それをやれるというくらいの見識を養わなければいけないと思います。」と創立当初述べています。そのくらいの気概を持って研修に取り組みなさいという強い塾主の思いが込められている言葉です。
研修期間は、ただ長ければいいというものでもありません。それに甘えて依頼心が芽生え、むしろ塾生をスポイルしてしまうことにもなりかねません。ある程度の基礎を作ったのち、社会の中で、現地現場で、辛酸をなめ苦労して人情の機微を知ってこそ、指導者としての資質も磨かれるのではないでしょうか。その基礎作りの期間がどれくらい必要なのかは、試行錯誤の中から見出していくしかありません。
松下政経塾は「人間を磨き、志を磨く道場」。しかも、先生のいない道場です。塾の定義は塾の卒業生の数だけあると思いますが、私は自他ともに「人間」を見つめ、鍛錬して、自らの人生の残り時間で何を成し遂げていくべきか、長期的ビジョンの中に、その「志」を位置づけ、覚悟を固めていくことこそ、塾生に求められていることだと思います。
塾主の建塾の思いと30年の試行錯誤の繰り返しから、これだけは塾生に研修、経験してもらいたいことがある一方で、何もかも塾がお膳立てをするのではなく、自修自得で研修を進めていくことが大前提です。前者と後者は一見矛盾するようですが、4年間の中でそのバランスを考え、塾生とともに研修を設計し、成果を出していくことが松下政経塾の研修の特徴です。
2011年7月 1日 17:21
松下政経塾 研修塾 塾頭 古山和宏(執筆)
前号で、一期生が松下政経塾に入塾して間もなく、当時の松下幸之助塾長から「さて、これから塾生の皆さんには塾のカリキュラムを作ってもらう」と言われ、一同おもわず顔を見合わせたという話をいたしました。
戸惑った塾生は「学校というから入ってみれば、建物と寮があるだけで、あとは何もないじゃないか。これでは詐欺だ。」と当時の職員に迫ったこともしばしばだったといいます。塾生を松下電器(当時)の販売店に預けて、販売実習を行ったときも、「俺たちは電気製品を売るために塾に来たんじゃない」と文句が出たこともありました。
ある塾員(2期生)は創立当時の塾をこう振り返えります。「私たちが入塾して数ヶ月が経った時、松下幸之助塾主が来られる日をあたかも待っていたかのように、ある塾生が突然手をあげ、塾主の正面に立った。塾の研修内容、カリキュラム、中身の問題を突然指摘し始めた。指摘というより批判といった方があたっているかもしれない。その塾生の言葉は、学生運動の壮士がいかにも世の中の不合理を指摘するかのようでもあった。経営の神様と言われ、一代で世界のトップ企業にまで松下電器産業を築き上げたその人に、まだ何の社会経験もない若者が、無謀にも立ち向かっていったのである。私たち塾生は、固唾を飲んで松下幸之助塾主の反応を待っていた。礼儀をわきまえないその塾生に対する厳しい"お叱り"が当然予想された。その塾生は塾から追い出されるだろうか。謹慎処分ではすまないだろうとも覚悟していた。そのとき、松下幸之助塾主が吐いた言葉は、『あんたの言うとおりや。そうせいや』だった。あまりにあっけない反応に私達は一遍に体の力が抜けるのを感じた。立ち向かっていった塾生は、力が抜けたように椅子にへたり込んでしまった。」
塾主から「あんたのいうとおりや。そうしたら。」と言われると、今度はかえって「本当にこれでいいのだろうか。大丈夫なのだろうか。」と疑問がわいてきた。「学校や塾などで受験戦争に打ち勝つ手段・方法ばかりを学んできた若者には、問題点の指摘や批判ができても、新たなものを創造する知恵も力もない。何度、それが答えに違いない、これが正解だろうと思っても、いつも目の前に立ちはだかるのは仏様の大きな手。『あんたの言うとおりや。そうせいや。』の言葉ばかりなのである。」
当時の塾生は、臆面もなく「経営の神様」にしばしば議論を挑んだのですが、今考えると赤面するばかりです。そんなやり取りを経て、現実的な対案のない批判は何の役にも立たないこと、そして、自修自得、万事研修という研修方針を少しづつ理解し始めていくのです。
2011年6月20日 17:02
松下政経塾 研修塾 塾頭 古山和宏(執筆)
なぜ、松下政経塾では設立当初から常勤の先生を置かないのか。それは5つの研修方針の冒頭にある「自修自得」という基本的な考え方を持っているからです。松下幸之助塾長(当時)は、本当に大事なことは「教えて、教えられないものだ」と繰り返し塾生に話していました。知識とか情報というのは、教えられる。しかし、本当に大切なものは教えられん、自分でつかみとるしかないというのです。
仕事には「勘所」というものがあります。「経営のコツここにありと気づいた価値は百万両」という松下幸之助の言葉がありますが、大事なコツは教えられない、自らつかみ取るしかないのです。したがって、本当に達人と言われるような人を育てていくには、自らつかみ取っていくような研修(環境)をつくらなければなりません。
松下幸之助は刀鍛冶の例をあげて、刀鍛冶には二通りのお師匠さんがいるというのです。最初の師匠の例は、入門してくる弟子に、手取り足取り一生懸命に「刀というのはこうやって打って、鍛えて、こうして刀を作るんだ」ということを丁寧に親切に教えるタイプです。
かたや、もう一つの刀鍛冶のお師匠さんは、弟子が入ってきても、ほとんど仕事らしい仕事を教えない。下働きばかりやらされる。ぞうきん掛けやいろいろな仕込みの用意をさせるのみで、刀をどうやって作るのかなんていうことは教えてくれない。だから、前者の刀鍛冶の弟子たちは、みんなは喜んで修行をする一方で、後者の刀鍛冶に入門したお弟子さんは、どんどんやめていくというわけです。
しかし、松下幸之助は「名人といわれるような刀鍛冶はどちらから育つか。前者の刀鍛冶からは上手な刀鍛冶は生まれるかもしれないが、名人は生まれない。名人といわれるような刀鍛冶は後者の刀鍛冶の弟子から生まれるのではないか」と非常に示唆的な話をします。
剣道などの稽古でも、先生は先輩の稽古をよく見て、「技を盗め」と言います。技を体得していくには自分でつかみとるしかないというところに、やはり修行の要諦というものがある気がいたします。
一期生が松下政経塾に入塾して間もなく、いよいよこれから有意義な研修をさせてもらえるのだろうと希望に胸をふくらませていた時、当時の松下幸之助塾長から「さて、これから皆さんには塾のカリキュラムを作ってもらう」と言われ、一同おもわず顔を見合わせたという話が残っています。将に、この自修自得、自ら修めて、自ら会得するという研修方針こそが建塾以来の松下政経塾の基本的な研修の考え方になっているのです。
2011年5月18日 10:45
松下政経塾 研修塾 塾頭 古山和宏(執筆)
塾設立にあたって、久門泰初代塾頭は松下幸之助塾長(当時)から次のような指示を受けたことを後に語っています。「『カリキュラムも要らない、講師も常勤は置かないし教室も要らない』教室は問題意識に基づき現地現場に行けばいい。経営なら経営者のもと、政治家になりたければ政治家の秘書になるなど、社会を教室にする。講師も必要に応じて依頼する。しかし、教室がないわけにはいかないので、それはつくる。塾には寮をつくり、塾生に宿泊してもらう。塾頭や副塾頭、「国策研究所」の主幹研究員などの職員は塾内に職員住宅を作るので、そこに住んでもらう。私(塾長)も宿泊するので、塾内に宿泊施設をつくる。私一代で終わっては困るので、公益法人として財団法人にしようと思う。学校法人は敷地、建物、蔵書数、講師の人数など制約が多すぎる。」
結局、「カリキュラムなし、講師なし、建物もなし」で文部省に設立許可手続きを開始することになります。当時の文部省に財団設立の申請をするときに、係りの者が申請書類を持って、文部省に説明に伺うわけです。「先生は何人置くのですか?」「いや、先生は置きません」「カリキュラムはどうするのですか?」「いや、カリキュラムも、塾生が入ってから考えようと思います」「教室はどうするのですか?」「教室も、別に要らない」と、こんな説明をしましたら、文部省の担当者は、もう目を白黒させて「そんな学校は認可できません」と。確かに常識的に判断すれば、当然かもわかりません。
結局、20-30回、文部省に通うことになったといいます。それもそうでしょう、前例のない「学校」をつくろうというのですから、担当官もさぞ面食らったことでしょう。学校法人ということであれば、文部省からいろいろな規制が加わります。蔵書は幾つにしないといけないとか、単位は何単位にしないといけない、運動場の広さは、建物は・・・、といわゆる規制というものがあります。
松下政経塾でも、どういう形態で塾を運営するかという議論がありました。学校法人というかたちを取ったほうがいいのか、それとも、別のやり方がいいのかということで、いろいろ議論をした結果、最終的には財団法人に落ち着いたのは、そうした国からの規制から極力自由に運営しようとしたからなのです。フリーハンドで教育ができるような体制をつくらなければ、真の人材育成というものはできないという結論になり、財団法人という形になったわけです。